名阪間に残った未訪廃村へ(1)

名阪間に残った未訪廃村へ(1) 三重県松阪市青田,蓮

廃村 蓮(はちす)の集落跡入口には,古い案内板が残っていた



2014/3/21 松阪市(旧飯高町)青田,蓮
[ 松阪市(旧飯南町)峠 ]

# 11-1
500か所超えへの道,ひとつの節目となる400か所超えが近づいてきて,「行きやすい初訪の廃校廃村には早めに足を運ぼう」と思うようになった。「廃村千選」のリストで行きやすい場所の代表として,名阪間の三重県松阪市(旧飯高町)青田(Ooda),蓮(Hachisu)と岐阜県揖斐川町(旧春日村) 谷山(Taniyama)が浮かんだ。鉄道で自宅(埼玉・浦和)と実家(大阪・堺)を往復するとき,途中下車すれば難なく行くことができそうだ。
青田と蓮は,ともに櫛田川水系の蓮ダムの建設で生じた農山村の廃村で,場所柄もあって旧白山町の戦後開拓集落の廃村 北布引に引き続き,愛知県在住の井手口さんと行くことになった。あと一か所,同じ松阪市(旧飯南町)の旅籠があった廃村 峠(Touge)も訪ねることができるよう準備をした。

# 11-2
平成26年3月21日(金祝),天気はやや荒天。未明5時に南浦和を出発して,乗り込んだ始発の新幹線はとても混んでいて,名古屋到着は4分遅れ。近鉄の松阪行き急行に乗って,途中弥富で井手口さんと合流し,伊勢中川駅に到着したのは午前9時19分。伊勢中川は,近鉄名古屋線,大阪線,山田線の交点で,近畿日本鉄道の要とも言える駅だが,町の規模は小さく,駅の周囲は駐車場が目立っていた。
中川でクルマを借りて,松阪市街をかすめてR.166を山に向かって走り,道の駅飯高で一服。旧飯高町の集落に過疎の匂いはあまり感じられない。蓮ダム(貯水量3260万立方m)の堤体を通過し,五万地形図(高見山,S.45)に文マークがある奥香肌湖畔には午前11時半に到着した。

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    深山小学校水没推定地から見た奥香肌湖                「想」と刻まれた青田の離村記念碑(井手口さん撮影)

# 11-3
深山小学校は,へき地等級1級,児童数125名(S.34),明治18年開校,昭和55年閉校。学校跡は青田集落跡の下流端にあり,「飯高町郷土史」(1986)によると,閉校後は校舎は取り壊され,ダム建設作業員の駐屯所として使われたとのこと。蓮ダムの竣工は平成3年。ダム完成によって学校跡は水没し,湖畔には何も残されていなかった。
湖水が青田川の流れになった辺りには,大きな平地があって,「想」と刻まれた青田の離村記念碑が建っていた。一見すると学校跡のようでもあるこの平地,昭和46年の住宅地図を調べたところ,保育所と建設会社があったようだった。

# 11-4
別荘らしきい数軒の家を見ながら道が二又になっている場所まで進むと,アマゴの養魚場があって,今も青田に住まれるおじいさん(大谷さん)と出会いました。大谷さんは青田生まれで,昭和20年代に大阪へ転出して,集落がなくなった平成初頃に戻ってきたとのこと。「大きなお寺の跡がある」と耳にしていたので,そのことを尋ねると,「盛伝寺という寺が山を上がって行ったところにあった」とのお返事をいただいた。
大谷さんにお礼を言って,クルマは二又の場所近辺に置いたままにして,井手口さんと二人でお寺跡を目指して歩くと,枝道からさらに枝道を入ったスギ林の中に,往時の家屋がそのまま残っていた。南向きの山腹にあるので,往時は日当たりが良く,見晴らしも利いたことなのだろう。

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  青田・集落の中心部(正面はアマゴの養魚場)                 廃屋の玄関先には木製の牛乳配達箱が残っていた

# 11-5
家屋の玄関脇には,廃村探索ではめったに見られない木製の牛乳配達箱が残っていた。青田は牛乳配達が行われるような集落だったことがわかった。道が途切れた後,スギ林を適当に歩くと,お寺に向かう道を見つかり,駐車場がある盛伝寺跡にたどり着くことができた。
広々としたお寺跡には大きなクスノキと「高嶽山 盛傳寺跡」と刻まれた碑があり,碑には「蓮ダム建設に伴い青田及び清瀬地区の檀徒も移転のやむなきに至る 従って当寺の維持が困難となり雲林寺と合併することになる 参百余年の長い歴史をここに閉じる 平成2年 盛傳寺檀家一同」と刻まれていた。青田の戸数は昭和50年86戸285名が,昭和57年61戸,昭和60年9戸,昭和63年2戸。移転は,昭和末頃に断続的に行われたようだ。

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  青田・「高嶽山 盛傳寺跡」と刻まれた碑                      盛傳寺跡には大きなクスノキが立っていた

# 11-6
青田からは,今年初めての私の運転で蓮へと向かった。青田川沿いの道は通り抜けできるのに対して,蓮川沿いの道は行止まりで,山も深い感じがする。やがて「蓮」という地名を記した看板があり,家屋が見えてきたので,蓮に到着したと思ってクルマを停めた。
ブロック塀がある廃屋は「いかにも廃村」という雰囲気があって,通じない電話,公衆便所跡などを確認して歩いたが,探索の目印の橋が見当たらない。地形図を確認すると,そこは三軒屋という手前の廃村とわかった。三軒屋から蓮までは2kmほどあるが,クルマに戻るのも手間と判断し,井手口さんとふたり,蓮へと歩き始めた。

# 11-7
三軒屋を離れると,山はどんどん深くなり,「この先に村があったのか」という雰囲気になってきた。先行きが心配になった頃,景勝地の宮ノ谷渓谷への分岐点に着き,場所が把握できてホッと一息。「谷の底に家の敷地のようなものがある」と,井手口さんから声が上がり,地形図を見たところ,黒い点があったが,家屋を建てるには少々危険な感じがした。後で調べたところ,往時は神社(蓮里滝神社)が建っていたようだった。
宮ノ谷の分岐点にはお地蔵さんがいて,ちょうど地域の方があげたばかりの線香が煙をあげていた。思いがけず山中で嗅ぐ線香の匂いは,頭をシャンとさせた。閉ざされた家屋を横目に先に進むと,二又の道の箇所に「蓮」と記された古びた看板が見えてきて,「今度こそ蓮に到着した」と確信することができた。

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「蓮」という手書きの看板が郷愁を誘う              蓮分校のものと思われるコンクリート製のオブジェ   .

# 11-8
森小学校蓮分校は,へき地等級2級,児童数66名(S.34),明治18年開校,昭和46年閉校。五万地形図(高見山,S.45)の文マークは,橋の手前に記されている。「このあたりじゃないかな」と注意しながらゆっくり歩くと,分校のものと思われるコンクリート製のオブジェが見つかった。学校跡の建物は,閉校から昭和63年頃まで「蓮 山の家」として活用されたが,今は平地が広がるばかりだった。学校跡を実感できたのは,オブジェのおかげだ。
学校跡の大きな平地を抜けると,川沿いに上がって行ける道があって,複数の流し,風呂跡などが見つかった。大部分にスギが植林された中,取り残されたように植林されていない空間があり,「ここに集落があった」ことを後世に伝えようとしているようにも感じられた。

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蓮・「水」と記された特徴的な流しがある家屋跡                      スギ林の中にも家屋跡が見当たった  .

# 11-9
蓮の戸数は昭和50年25戸79名が,昭和57年24戸,昭和60年2戸,昭和63年ゼロ。蓮の現況は遺跡のようであり,移転が昭和末頃とは思えないほどだった。「水」と記された特徴的な流しがある家屋跡あたりで昼食休みをとろうとしたところ,みぞれが降り始め,スギ林の境目まで移動しなければならなかった。井手口さんは三重県の比較的行きやすい場所に広がる遺跡のような廃村の風景に,驚かれたようだった。
帰り道は旧飯南町粥見からR.369(伊勢本街道)に入って峠に立ち寄り,伊勢奥津駅からJR名松線沿いの県道を使うルートを選んだ。西国から来る伊勢詣の旅人が泊まる旅籠が残る廃村 峠には,平成6年夏(8月),keiko(妻)とのツーリングで立ち寄ったことがあり,私はそれ以来10年ぶりだ。

「昭和50年 廃村」と記された「史跡 峠」の案内板

# 11-10
手前の集落 仁柿から未改良区間(大型車通行止)が残るR.368を走って,仁柿峠の頂上(標高430m)にある峠集落跡に到着したのは午後4時10分。「昭和50年 廃村」と記された「史跡 峠」の案内板はそのままの姿で残っており,集落内のバイパスの工事区間はそのまま放置されていた。2階建ての旅籠「駕篭屋」跡の庭には洗濯物が見られたが,雨戸は閉ざされていた。「防犯用じゃないかな」と思ったが,実態は謎である。
仁柿小学校峠分校は,へき地等級1級,児童数20名(S.34),昭和23年開校,昭和46年閉校。バイパスを渡る橋のそばの狭い階段を上がった所にある分校跡には,往時の水回りの水色と青色のタイルもそのまま残っていた。改めて見ると,水色のタイルは風呂,青色のタイルは流しのようだった。

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峠分校跡に残る水回りにて(井手口さん撮影)                    分校跡からは,峠集落を見渡すことができる

# 11-11
高台にある分校跡から見下ろした集落跡は,うっすら雪が積もっていて,茶畑は整った姿を保っていた。今回峠で見た廃村の風景は,10年前とほぼ変わらず,かつ雑草が薄くてすっきりした感じがした。道中,スギ花粉でよく鼻水が出たが,茂みが薄いのは幸いだった。
中川のレンタカー店到着は夕方6時10分。走行距離は160km。格安店で2名で借りたレンタカー代は,嬉しくなるほどの安さだった。
フィールドワークの打上げは,伊勢中川駅近くの居酒屋「永楽座」。なぜかとても流行っていたが,初めての町の賑やかさが心地良いくらいだった。会は午後9時頃まで続き,私は大阪上本町行き快速急行で,井手口さんは名古屋行き急行で,それぞれの家路をたどった。

(追記) このとき,私が撮った画像と井手口さんが撮った画像を見比べて,私のカメラの露出が甘くなっていることに気が付いた。この類の気づきは,友達とのやり取りの賜物と言えそうだ。



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