寝台特急で出かけた土佐の廃村

寝台特急で出かけた土佐の廃村 高知県芸西村白髪,久重,________________
____________________________________香美市中津尾,香南市撫川,仲木屋

廃村 撫川(むがわ)には小学校跡の門柱が残っていた



2015/3/7〜8 芸西村白髪,久重,香美市(旧物部村)中津尾,_______________________________
_____________________________________香南市(旧香我美町)撫川,(旧夜須町)仲木屋

# 18-1
高知県の「廃村千選」のポイントは21か所。関西以西では,宮崎県,愛媛県に次いで第3位の数がある。これに対して,平成26年末現在 私が足を運んだポイントはわずか3か所(踏破率14%)。関西以西ではいちばん低く,全国でも第4位の低さだ。これは一度行っておかなければならない。
また,高知県には,バイクでは4回足を運んでいるが,鉄道にはまだ乗ったことがない。計画を立てているうちに,高知県の鉄道に乗車すると,鉄道乗車の全県踏破の達成となることがわかった。「鉄道に乗るなら,印象に残る乗り方をしたい」と思い,往路のJRは新幹線ではなく,東京から四国へ向かう寝台特急「サンライズ瀬戸」を使うことになった。夜行特急で四国へ向かうのも初めてのことだ。

# 18-2
目標の廃校廃村は,県東部の香美市上岡,中津尾,上穴内,香南市撫川,仲木屋,芸西村久重,白髪の7か所とした。狭いエリアだが,山は険しく,特に上岡,仲木屋には,山道を歩かなければたどり着くことができない。
3月6日(金),いつも通り都内で仕事をこなして,浦和の自宅で夕食をとって,妻の見送りを受けたのは夜8時50分。「サンライズ瀬戸」は,下側の個室B寝台(シングル)。折りしもブルートレイン「北斗星」の定期運行終了が間近の頃だが,赤系車体のサンライズには,鉄道好きの方の匂いは薄く,淡々と運行しているように感じた。東京駅出発は夜10時。列車の動きは「本当に明朝は四国なんだろうか」と思わせるほどゆっくりしている。

東京駅に停まる,赤系車体の寝台特急「サンライズ瀬戸」


# 18-3
静岡あたりで日付が変わって翌7日(土),ノンアルコールで臨んだ寝台特急の夜の寝付きは悪く,浜松−姫路の通過区間も「あ,大阪駅で停まったなあ」とわかるほどだ。瀬戸大橋の車窓風景は,見晴らしが良い上側の寝台に移動して臨んだが,天気は雨交じりの曇り空で,気分はさえない。
朝7時9分,坂出で下車して,丸亀で「さぬきうどんでも食べようか」と改札に向かうと,パスケースを車内に忘れたことがわかって大あわて。幸い無事に見つかったが,高松駅の忘れ物取扱所まで行かなければならなくなり,約1時間のロスが生じることになった。高松でたこめしの駅弁を買って乗車したのは高知行の特急「しまんと」。2両編成のお客はまばらなディーゼルカーで大歩危峡を越え,土佐山田駅到着は午前10時25分となった。

# 18-4
土佐山田駅では,高知県在住のネット仲間 大原さん(私の同世代の男性)が待っていてくれた。大原さんは「廃校・休校 〜山から人が消えてゆく」Webの管理者で,高知県内の500校を超える廃校・休校の全訪問を目指されている。およそ10年の付き合いだが,お会いするのは今回が初めてのことだ。
当初予定した「四国本土一番の難関」の言われる上岡行きは,雨天のためあっさり断念。代わりに,道は悪いけれどもクルマで現地まで行ける芸西村白髪(Shirege)を目指すこととなった。地形図で見る分には,海辺りの集落 安芸市赤野山田から白髪までは6kmほど。しかし,その道は荒れたダートで,ずいぶん長く感じられる。そのうちに竹林が目立つようになり,進行方向左手に分校跡へ向かう道が確認できた。

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  白髪分校跡の建物は,竹林の中で半壊しながらも残っていた        「白髪分校」と記された木製の標柱があった

# 18-5
芸西小学校白髪分校は,へき地等級2級,児童数24名(S.34),明治20年頃開校,昭和46年閉校。白髪集落は標高約400mの稜線上にあり,閉校と同時期(昭和46年),県による集落再編成事業により集団移転し,閉村となった。分校跡の建物は竹林の中で半壊しながらも残っており,その手前の「和食尋常小学校白髪分校」と記された木製の標柱が建っていた。白髪集落跡では立派な家の門柱,風呂の跡,側溝の施設跡などが確認できた。
人の気配がない白髪を後にして,芸西村の中心集落 和食近辺の海岸で簡単な昼食をとった後,戸数2戸(H.24)の高度過疎集落 久重(Kue)を目指した。和食から久重までの距離は約8km。狭くて曲がりくねった道だが,舗装されており,コミュニティーバスも走っているようだ。

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 久重小学校跡に建つ「芸西村山の家」                      久重集落では,ウメの花が咲いていた

# 18-6
久重小学校は,へき地等級2級,児童数68名(S.34),明治7年開校,昭和51年閉校。久重集落は標高約270mの谷沿いにあり,小学校跡には平成5年に「芸西村山の家」が建設され,研修・宿泊施設として利用されているとのこと。小学校入口付近ではウメの花が綺麗に咲いていた。
山の家のそばに1戸の家があったので,訪ねてご挨拶をすると,もう1戸の方は山を下りられたとのお話をうかがった。小学校の防災無線のスピーカーを見て,大原さんは「スピーカーの向きで家々の所在地の見当がつく」と話されていた。久重に続いては,小学校の校区だった戸数1戸(H.24)の国光(白木山)と戸数5戸(H.24)の道家に立ち寄った。

# 18-7
道家には,昭和42年が終演となったという道家神楽の舞台が神社(十三躰星神社)の神木を背にして残っている。手前には「道家神楽伝承館」という建物があり,地域の方が神楽を大切にされている様子が伝わってきた。
道家からは,稜線近くを走る林道(里山林道)に出て,香南市(旧夜須町)に抜けることができる。整った林道を走って戸数13戸(H.24)の集落 羽尾を訪ね,小学校跡にある「羽尾 大釜荘」というローカル色が強い休憩ポイントで,コーヒーを飲んで一服。翌日訪ねる予定の仲木屋の分校は,羽尾小学校が本校だ。大原さんのお話から,久重,羽尾,仲木屋,撫川が,昭和の大合併以前は東川村という同じ自治体だったと知った。

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    道家神楽の舞台と立派なご神木の十三躰星神社              羽尾小学校跡は,休憩ポイント「羽尾 大釜荘」になっている

# 18-8
羽尾小学校は,へき地等級2級,児童数38名(S.34),昭和52年閉校。羽尾集落は標高約350mの山間の小盆地。大釜荘の喫茶室にはお客さんが2人いて,そのうち恒石さん(70代の男性)はかつて羽尾と仲木屋の間にある沢谷(仙頭屋敷)に住まれていたとのこと。廃村探索の仲間,村影弥太郎さんのWebの仲木屋レポートに掲載がある「日露戦役記念碑」について尋ねたところ,「仲木屋分校にはその記念碑があった」というお話を伺うことができた。
喫茶室からよく見える「ココニ羽尾小アリ」という碑の画像を撮って,羽尾を後にした。羽尾から旧夜須町の中心集落 手結までは「スムーズに走る」という理由で,県道ではなく里山林道を走った。大原さんとは,南国市後免のレンタカー店まで送っていただいた後,いったんお別れとなった。

# 18-9
レンタカーはKクラスのMRワゴン。この日の宿は旧夜須町手結山の公共の宿「海のやど しおや宿」。強い雨の中,後免から手結山までのR.55では,赤岡のスーパーで土産の酒,ポン酢などを調達。宿で休肝日明けの夕食をとってからは,寝台特急の疲れもあって,早めの就寝となった。
翌8日(日)の起床は未明5時頃。まだ暗いうちに宿を出発し,まず,香美市(旧物部村)中津尾(Nakatsuo)を目指した。安芸市郊外で朝陽を観察し,続いて走った畑山までの山間の県道は細くて曲がりくねっているが,対向車はほとんどなく運転は快適だ。しかし,県道が林道に変わって,中津尾入口の三差路で対向車を除けるためバックしていると,後輪を溝に落としてしまった。対向車の方の力添えで事なきを得たのは幸いだった。

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        中津尾・集落を通る道はダートだった                中津尾分校跡には,小さな石碑(昭和57年建立)が建っていた

# 18-10
対向車の方(60代ぐらいの男性)は中津尾地内の堂平に行かれるとのことで,ご挨拶をすると,中津尾分校跡まで先導していただくことになった。明改小学校中津尾分校は,へき地等級4級,児童数15名(S.34),昭和34年開校,昭和44年閉校。中津尾集落は標高約380mの谷間にあり,地図インフォの戸数は堂平を含めて3戸(H.24)。校舎は分校跡の小さな石碑の場所に建っていて,今ある建物は元教員住宅で,のち公民館として使われたようだ。
ダートの道から山を見上げると石垣の上に建つ家が見当たったので,山道を上って見に行くと,整っていましたが閉ざされて久しい様子だった。家の軒先でパンを食べて一服するなど,中津尾では1時間滞在したが,誰にも出会うことはなかった。

# 18-11
安芸市のいちばん山側の集落跡 轟を過ぎ,弓木トンネル(昭和57年竣工)を抜けると香南市(旧香我美町)に入り,県道との十字路がある舞川に到着した。林道(畑山奥西川線)と県道(夜須物部線)は立体交差となっており,「なぜこの山中で立体交差」と驚かされる。
舞川小学校(のち北部小学校)は,へき地等級3級,児童数29名(S.34),昭和57年休校,平成16年閉校。舞川集落は標高約390mの谷間にあり,戸数4戸(H.24)と,過疎が進行している。小学校跡はキャンプ場となっているらしいが,先の行程を考えて立ち寄らなかった。
舞川−撫川間の県道沿い(和田の谷あたり)には,人工林の中に石垣,家屋跡が広がっており,クルマを停めさせる強い廃村の雰囲気が感じられた。

舞川−撫川間,県道沿いは廃村の雰囲気に満たされていた

# 18-12
家屋が3戸ほど建つ撫川(Mugawa)の中心部に到着したのは午前9時25分。撫川公民館は道の右手を少し上がった場所にあり,整っていたが永らく使われていないように見えた。大原さんのWebには「小学校跡は公民館の近くにある」と記されているので,注意しながら歩き,県道沿いの入口に古い石碑がある坂道を上がると,古びた石造りの門柱が見つかった。思ったよりも見つけやすかったのは,草が少ない時期だったからかもしれない。
撫川小学校は,へき地等級3級,児童数27名(S.34),明治7年開校,昭和38年閉校。撫川集落は標高約430mの谷間にあり,地図インフォの戸数は2戸(H.24)。学校跡に植えられたスギは大きくなっており,木々の間を抜けて探索すると,「愛国」と刻まれた戦中の匂いがする石碑が見つかった。

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撫川・永らく使われていない様子の公民館                     撫川・神社の鳥居は倒れてつぶれていた

# 18-13
学校跡に続いて,300mほど上手の神社(大宮神社)を見に行くと,鳥居は根元から折れて倒れており,左側の狛犬は台座からすべり落ちていた。神社と反対側には広いゆず畑があって,通いで手入れがなされているようだ。撫川の45分ほどの探索の間も,誰にも出会うことはなかった。
稜線上の三差路は,旧香我美町と旧夜須町の町境。ここから林道に入ってしばらく進むと,大原さんが待っていてくれて,再びの合同探索が始まった。
「この先はダートになっているから」とのことで,大原さんのクルマに乗り替えて先を進むと,NTTの無線中継局へ続く道の分岐があって,その少し先の林道沿いに仲木屋分校跡の石碑が見つかった。仲木屋(Nakagiya)の分校跡は,碑に刻まれているように「ここから下へ約100m先」にある。

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尾根の上の仲木屋分校跡の石碑(平成5年建立)            尾根から道なき道を下り,仲木屋分校跡をめざす       .

# 18-14
長靴に履き替えて,大原さんとともにガードレール脇から始まる道なき道を下っていくと,先は深い谷間になっていた。谷間を渡ったり下りたりせず,ゆるやかに斜めに歩いていくと,「アゲクラ」と記された電柱が倒れていて,その下手には家の敷地跡らしい平地が見えてきた。ここが往時4戸の暮らしがあったという仲木屋集落跡の様子だ。さらにもうひとつの谷間を越えてしばらく進むと,左手に段々になった平地が確認された。
羽尾小学校仲木屋分校は,へき地等級4級,児童数1名(S.34),明治29年開校,昭和36年閉校。村影さんに送っていただいた離村後2年目の仲木屋の新聞記事は,「教師1名,児童1名の分校の様子はマスコミでも取り上げられた」と記していた。

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    30分ほど歩いてたどり着いた仲木屋分校跡の敷地           分校跡には「日露戦役記念」の碑が建っていた

# 18-15
目印の「日露戦役記念碑」は,分校跡正面から見て左手の山側にしっかりと建っていた。また,新聞記事の写真と同じような黒い瓦が散らばっていたことから,校舎が建っていた場所も特定できた。仲木屋分校までの道中では,廃村探索の仲間 おきのくにさんが用意してくれた往時の郵便地図,森林汎用図がとても役に立った。後に恒石さんに尋ねたところ,仲木屋には昭和5年頃には畑山の水力発電所からの電気が来ていたとのことがわかった。
帰り道の途中,足を運んだ仲木屋集落跡は標高約600mの山中の斜面にあり,離村は昭和37年。無住になって50年強,集落跡の最下方の段には二棟の家屋(離れと蔵)が残っていた。家屋がある段から見上げると,累々と石垣が築かれており,その合間には往時の道がはっきりと残っていた。

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  仲木屋・無住になって50年強の集落跡に整った蔵が残っていた     仲木屋・石垣の合間には,往時の道が残っていた

# 18-16
仲木屋の探索はおよそ2時間。シカとキジ,イノシシの鳴き声と出会った山中の探索,何かあったときのことを考えると,単独では行くべきではない。分校跡の碑まで戻り食した弁当は,大原さんが用意してくれた温かいワンタンスープもあって,とても美味しかった。碑に刻まれた「ここから下へ約100m先」は,碑がある場所の標高が700mということを考えると,標高差を示すようだ。
食後は,昨日に続いて「羽尾・大釜荘」へコーヒーを飲みに出かけた。大釜荘の管理は当番制のようで,昨日の方と再会できなかったのは少し残念。一服した後は,クルマが2台あることもあり,「いつか上岡にご一緒しましょう」とご挨拶して,大原さんと大釜荘でお別れした。

瀬戸大橋,岩黒島の辺りから島並みの夕景を楽しむ

# 18-17
羽尾からは県道を通って夜須市街を目指すと,自動車専用道に乗ることができ,1時間弱で後免のレンタカー店に着いた。帰路のJRで乗車したのは,後免駅発午後4時21分の岡山行特急「南風」。3両編成のディーゼルカーのお客はまずまずの数。車窓の風景をあてにビールを飲んで,時々まどろみながら過ごしていると,瀬戸大橋を渡るときには夕暮れになっていた。この日の宿,大阪・堺の実家には,岡山から2時間で到着した。
白髪,久重,中津尾,撫川,仲木屋と,今回足を運んだ廃校廃村は全部で5つ,学校跡はすべて特定できた。1泊2日の行程,うち1日は雨だったことを考えると,上岡には行けなかったものの十分満足できるものだった。「廃村千選」高知県の踏破率は38%まで上げることができた。

(追記) 平成28年1月,大原さんと一緒に上岡を訪ねることができた。高知県の「廃村千選」のポイントは,その後の更新で20か所となった。また,この旅で撮った仲木屋の蔵の写真は,初めての単独執筆市販本『廃村をゆく2』(イカロス出版刊,平成28年5月26日(木)発売)の裏表紙に使われた。



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