北九州 雨のダム系廃村めぐり

北九州 雨のダム系廃村めぐり 佐賀県吉野ヶ里町大川内,________________
____________________________________福岡県那珂川町五ケ山,宮若市犬鳴

廃村 五ケ山(ごかやま)には,小学校跡の碑が建っていた



2015/5/18 吉野ヶ里町(旧東背振村)大川内,_________________________________
____________________________________那珂川町五ケ山,宮若市(旧若宮町)犬鳴

# 19-1
「500か所超えへの道」の旅では,「廃村千選」のポイントにおける22都府県の完訪を同時進行で目指している。廃校廃村がない茨城,千葉,大阪(3府県)を除外とすると,44都道府県のちょうど半分となる。44都道府県完訪,「廃村千選」完全踏破(1000か所訪問達成)は夢のまた夢なので,22都府県完訪,500か所訪問達成はよい目標と言える。
平成27年1月,盟友 村影弥太郎さんから五ケ山ダム関連の廃校廃村 大川内,五ケ山の存在を教えていただき,北九州3県の未訪ポイントは,福岡2か所,佐賀1か所,長崎3か所に変化した。このため,大川内,五ケ山と犬鳴を訪ねて,佐賀,福岡の完訪(累計18都府県の完訪)を企てることになった。

# 19-2
平成27年5月中旬の旅は,土日の大阪出張の流れを使った。JR新大阪駅発夕方5時42分ののぞみが博多駅に到着したのは夜8時11分。福岡市街での宿泊は21年ぶり2回目。初体験の福岡屋台には天神,中洲の順で立ち寄った。春吉橋で路上ライブを聴いた後,宿のそばの銭湯に入るオマケが付いた。
翌18日(月)の起床は未明5時15分。天気はあいにく曇のち雨。宿を出て中洲の屋台を見に行くと,夜の賑わいが嘘のように何もなくなっていてびっくり。思い付きで乗った西鉄天神大牟田線の急行電車が西鉄福岡(天神)駅を出発したのは朝6時37分。二日市,鳥栖を経由して,レンタカー店がある新鳥栖駅に到着したのは朝7時55分。初めての西鉄電車は全員が着席できる程度の混雑度。見知らぬ電車の車中には,ほのかな刺激があった。

西鉄福岡(天神)駅に停まる花畑行き急行電車


# 19-3
借りたクルマは白系のスペーシア。「周囲は広々としているのかな」と思った新鳥栖は,意外と市街に近い場所にあり,平日の通勤時間帯,中原辺りの県道は渋滞している。しかし,山へ向かう道に入った途端,クルマの姿はなくなり,県境に構える背振山地にはしっかり山の空気が流れていた。
大川内(Ogouchi)と五ケ山(Gokayama)は,福岡市街を流れる那珂川の上流部にあり,五ケ山ダム(未竣工)の建設により,平成17年に閉村となった。R.385佐賀大橋(佐賀と福岡の県境)で枝道に入り,たどり着いた大川内では「五ケ山豆腐」というノボリが見当たった。そのお店は「立入禁止」の看板がある旧道沿いに建っていたので,ここにクルマを停めて,お店に入って大川内の情報収集を開始した。

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児童注意の標識が残る大川内集落跡(先の橋はR.385佐賀大橋)         神社のご神木の杉が残されていた  .

# 19-4
お店の中には五ケ山ダムの詳しい地図が貼られており,神社の移転地が佐賀大橋のそばにあることがわかった。土産の醤油を買いがてらお店の方に大川内について尋ねると,「立入禁止の看板を越えて1kmほど歩くと,神社のご神木が残っている」とのお話を伺うことができた。
傘をさして「お邪魔します」と声をかけて立入禁止の看板を越えると,穏やかな雰囲気の旧道が続いていた。やがてたどり着いた家々が取り壊された集落跡には児童注意の標識が残っており,この辺りに学校があった様子だ。続く三差路を右に折れて坂道を上がると,見下ろす方向にご神木が見つかった。そばの案内板には「佐賀県指定天然記念物 大川内の杉」,「山祇神社の神木として長い間住民に親しまれた」と記されていた。

ダム湖畔予定地には,小学校の門柱が移設されていた

# 19-5
大川内小学校は,へき地等級2級,児童数21名(S.34),明治8年開校,平成4年休校,平成17年閉校。跡地の特定はできなかったが,神社の移転地を訪ねたところ,いろいろな碑の中に,小学校の門柱と「大川内小学校移転記念碑」(平成20年建立)を見つけることができた。
大川内と五ケ山は県境を挟みますが,距離は3kmほどしか離れていない。R.385佐賀大橋を渡り,大きな橋が続く新道を走り切り,まず網取(大字五ケ山の中心集落)にある神社に足を運んた。「山神社」という扁額があるこの神社,近くに農作業をされる地域の方がいたので,神社について尋ねたところ,「昔からここにある」とのお返事を得た。また,学校跡について尋ねたところ,「旧道沿いに跡地がある」とのお返事をいただいた。

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  五ケ山小学校跡は,旧道沿いを走るとすぐにそれとわかった       新道からダムの堤体を確認すると,すぐ下に小学校跡が見当たった

# 19-6
五ケ山小学校は,へき地等級2級,児童数65名(S.34),明治7年開校,昭和41年閉校。工事関係の車両が走るR.385旧道を「行けるところまで行こう」とクルマを走らせると,車窓の右手に一目で学校跡と分かる場所が見当たった。クルマを停めて探索すると,門柱と「五ケ山小学校跡地」の碑(平成元年建立),ブロック造りの小屋,動物のオブジェを見つけることができた。
改めて新道を走ってダム堤体を確認したところ,小学校跡は堤体のすぐ下手だった。また,五万地形図(背振山,S.43)を確認すると,文マークは網取の上手約1km,周囲に家がない場所に記されていた。この場所に学校があったのは,大字五ケ山の各集落から平均的に通いやすかったからようだ。

# 19-7
五ケ山の探索終了は正午頃。荒天なので,新鳥栖に引き上げることも考えたが,私が住む埼玉から福岡にはなかなか行くことはできない。「もうひと頑張り」と決めて,R.385を福岡市街方向に走り,春日,大野城,宇美,須恵,久山といった郊外の町を抜けて,福岡市東方山間の犬鳴を目指した。
犬鳴(Inunaki)は,筑豊を流れる遠賀川の支流 犬鳴川の上流部にあり,犬鳴ダム(平成6年竣工)の建設により,昭和60年に閉村となった。ダム湖の名称「司書の湖」は,江戸時代後期,犬鳴に鉄山を開き,山城を作った福岡藩の家老 加藤司書の功績をたたえて名づけられたとのこと。
県道の新犬鳴トンネルを越えると,左手にダム堤体が見えて,犬鳴到着にホッとひと息。しかしクルマを停めた頃,雨は本降りになっていた。

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   犬鳴ダムに着いた頃,雨は本降りになっていた               ダム湖畔に「犬鳴区移転者記念の碑」が見つかった

# 19-8
吉川小学校犬鳴分校は,へき地等級1級,児童数17名,明治15年開校,昭和41年閉校。堤体から時計回りにダム湖畔をクルマで走ると,すぐに「犬鳴区移転者記念の碑」が見つかったが,村影さんのWebで見た記憶がある分校跡の案内板は,見当を外したらしく見落としてしまった。
犬鳴から九州道福岡ICまではほど近く,福岡ICから鳥栖ICはわずか2つ目。新鳥栖駅には,予定よりもだいぶ早い午後4時には帰り着いていた。
この日の宿泊は長崎市街。「軍艦島を世界遺産にする会」理事長 坂本道徳さんと3年ぶりにお会いして,世界遺産勧告お祝いの乾杯。翌19日(火)はすっきりした晴天,長崎市街の坂道探索,軍艦島上陸観光を楽しみ,長崎空港で箕島の慰霊碑を遠望し,浦和への帰途へと着いた。

(追記) (注2) 平成29年2月26日(日),「廃村千選」は「差替えにより累計数1000を守る」という考えを取り払い,追加分があれば増える形に改めたため,福岡県の累計数は5か所となり,完訪は先送りとなった 。




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