未年 旅の終わりは若狭路へ

未年 旅の終わりは若狭路へ 福井県おおい町出合

廃村 出合(であい)の学校跡には,大きな跡地記念碑が建っている



2015/11/16 おおい町(旧名田庄村)出合
[ 挙原,永谷,虫谷,若狭町(旧上中町)河内 ]

# 24-1
平成27年10月28日(水)未明頃,大阪・堺の母から「お父さんが亡くなった」と連絡を受けた。当日は正午過ぎに浦和を出発し,葬儀(家族葬)についてうかがい,翌日夕方に通夜,翌々日午前に葬儀を行い,夜8時頃浦和に戻った。そして10月31日(土)早朝,予定通り秋田県廃村フィールドワーク第3陣のため,新青森経由で大館に向かった。葬儀,フィールドワークともに滞りなく行えたのは,父からの贈り物のように思えてならない。
11月中旬,堺の実家を訪ねるにあたって,私は北陸後回りでレール&レンタカーの切符を手配した。いろいろなことがあった未年の旅の締めくくりに選んだのは,福井県・若狭の廃村 おおい町出合(Deai)だった。出合を訪ねることで,秋田県廃村フィールドワークの流れを一段落させたかった。

# 24-2
若狭唯一の廃校廃村 出合は久田川上流沿い,永谷川との合流部にある。昭和48年,揚水発電所施設の建設計画を起因とした集団移転は,国土庁の補助事業で行われた(施設は未竣工)。11月16日(月)の天候は晴。大阪駅発朝8時10分発の「サンダーバード」の敦賀駅到着は午前9時38分。敦賀駅から出合まではクルマで68kmもあり,山の手前の虫鹿野に着くと商店に入って一服した。
久田川に沿った人の気配のない舗装道を進むと,集落跡入口付近の左手にすぐにそれとわかる学校跡が見つかった。出合小学校(のち名田庄小学校出合分校)は,へき地等級2級,児童数28名(昭和34),明治6年開校,昭和53年休校,昭和63年閉校。学校跡の更地には,大きな石碑が建っていた

出合小学校跡地記念碑は,広い更地の中に造られていた


# 24-3
出合という名称は,川の合流点を意味する。学校跡そばにクルマを停めて,歩いて三差路(久田川と永谷川の合流点付近)を過ぎ,永谷川沿いに進むと,二万五千図(久坂,S.48)の卍マークの場所には,屋根の残骸が見られた。秋田県の廃村には寺跡はほとんどないが,福井県では多くの廃村に寺跡がある。「角川地名大辞典」によると,寺は曹洞宗福寿寺とのこと。
橋の近くの集落跡らしき平地で昼食休みをとりながら人工林(スギ林)に着目したところ,根元に緑はなく,倒れた木が見られた。秋田県ではこのような例は見当たらなかった。フィールドを一緒に歩いた林直樹さんが「秋田の人工林の状況はよい」と言っていた理由がよくわかった。

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     出合・福寿寺跡には,屋根の残骸が見られた              出合・スギ林の根元には緑はなかった

# 24-4
出合の次はダートを走って,久田川最上流山中の挙原(Agehara)に向かった。挙原には履中天皇の皇子由縁といわれる史跡(皇子塚)がある。クルマを停めて急な山道を上がり,まず皇子塚を確認したところ,石垣と質素な祠が見当たった。
谷を挟んで反対側の集落跡では,石垣や柿の木,屋根瓦,屋根だけが残った小屋が見当たった。離村時期は出合と同じく昭和48年のはずだが,村がなくなってからずいぶん経つような印象を受けた。「角川地名大辞典」には,昭和30年の集落の規模として,出合17戸・65名,永谷14戸・63名,出合9戸・36名と記されているが,挙原の規模は記されていない。後の名田庄図書館への問い合わせで,昭和30年代には1戸が残るのみだったことがわかった。

挙原・皇子塚の石垣と質素な祠

# 24-5
挙原に続いては一度出合に戻って,永谷川最上流沿いの永谷(Nagatani)に向かった。川沿いには電線が架かっていない電柱が続いており,廃村ならではの雰囲気を醸し出している。道路記念碑そばにクルマを停めて,永谷を歩いて感じたのは,廃村としての生々しさだった。いくつかの家屋が残るが人の気配はなく,寺(曹洞宗長泉寺)の建物の入口は崩れ,神社の建物も大破していた。
とりわけ印象深かったのは,集落跡に残る遊具だった。昭和50年代には子供がこの遊具で遊んでいたはずだが,それは夢の出来事ではないかと思えるほどの静寂さだった。後の名田庄図書館への問い合わせで,永谷には移転に反対した4戸が長く残り,平成12年に世帯数ゼロになったことがわかった。

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    永谷・大破した長泉寺の建物                          永谷・集落跡に残された色褪せた遊具

# 24-6
永谷からは虫鹿野まで戻って,虫谷川沿いの虫谷(Mushidani)に向かった。集落の入口には「みどりとせせらぎに語り合える久田の里 下久田(虫谷)名田庄」という看板が建っており,集落跡に建つ萱葺き屋根にトタンをかけた家屋からは穏やかさが感じられた。集落には一軒現住家屋があるが,住まれるのは無住になった後移り住まれた方とのことで,遠目で見ただけとした。
虫谷を訪ねて,平成28年に初めて訪ねた廃村の数は101か所(これまでで最高)となった。秋田県廃村フィールドワークの特需があってこその数だが,盟友村影弥太郎さんは,おそらく毎年100か所超えを達成している。初めて100か所超えを経験することで,改めて村影さんのすごさが感じられた。

虫谷・集落跡に建つ萱葺き屋根にトタンをかけた家屋

# 24-7
虫鹿野から敦賀駅までの帰り道には,R.27から少し寄り道をして,若狭町(旧上中町)の高度過疎集落 河内(Kouchi)を訪ねた。河内の旧集落は河内川ダム(未竣工)の建設により離村したが,ダム予定地沿いの高台には戸数4戸の新集落が形成されている。一時は「廃村千選」のリストに含めていたが,更新によって差し替えたという経緯があるので,立ち寄っておきたくなった。
手前の鯖街道の宿場町 熊川を過ぎ,河内川沿いの道を進むと,ほどなくダム工事のため通行止になった。回り込んでたどり着いた高台の新集落は小さいながらも生活感があり,移転された寺(浄土真宗円成寺)もあった。新集落に,廃村という言葉は似合わなかった。

# 24-8
敦賀駅到着は,夜の帳が下り始めた夕方5時頃。走行距離は約160km。年休取得の一日,道中あわただしい日常をきれいに忘れることができた。また,調査で回った秋田県廃村フィールドワークと,自由なフィールドワークとの違いもよくわかった。没頭できる趣味があることは,ほんとありがたい。
帰路は敦賀発夕方5時24分「サンダーバード」にダイヤ乱れが生じたため,金沢での「かがやき」の乗継ぎ(4分の乗継ぎ)はできずとなった。このため,大宮着は予定より1時間遅れの午後9時54分となった。ダイヤ乱れが多発する昨今,乗継ぎ時間には余裕があるほうがよさそうだ。
未年の廃村探索はこれにて打ち止め。「廃村千選」の累計訪問数は482か所,新規訪問数は48か所/年(見込みよりかなり多めの数)となった。

(追記) 平成29年2月26日(日),「廃村千選」は「差替えにより累計数1000を守る」という考えを取り払い,追加分があれば増える形に改めたため,若狭町(旧上中町)河内を廃校廃村に再カウントした 。



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