500か所超えに続き 関西41か所全訪達成!

500か所超えに続き 関西41か所全訪達成! 兵庫県香美町本見塚,豊岡市金山

廃村 金山(きんざん),深い山中に集落跡の雰囲気が残る



2016/10/9〜10 香美町(旧香住町)本見塚,豊岡市(旧日高町)金山

# 30-1
平成28年8月の宮城県への旅(加美町田代,大崎市北滝)で,「廃村千選」の累計訪問数は501か所となり,無事500か所超えは成就した。
500か所超えとともに進めていた県単位の全訪は,宮城県(全11か所)を8月に達成し,兵庫県(全8か所)もあと2か所で達成となる。兵庫県が達成したら全訪は22府県となり,同時に関西の「廃村千選」のポイント41か所も全訪となる。
500か所超えの道の旅のフィナーレとして,兵庫県香美町本見塚(Motomiduka),豊岡市金山(Kinzan)への旅の計画が決まったのは,6月末,同じ兵庫県の廃村 朝来市上生野への旅が終わった頃だった。7月末には飛行機のチケット(鳥取空港−羽田)の予約を入れた。

# 30-2
10月7日(金),浦和の自宅での起床は未明5時。天気は快晴。keiko(妻)とふたりでのぞみに乗って大阪へ行き,8月中旬から入院中の母の見舞いに妻の母とともに出かけた。母はだいぶ元気になって,久しぶりに堺の家に一時帰宅できた。ささやかながら,仏壇を囲んで父の一周忌のご挨拶ができた。
翌8日(土),岸和田の実家での起床は朝6時,天気は概ね曇。秋まつりの季節,泉州のだんじりは朝早くから賑やかに走っている。
keikoとふたりで大阪駅からスーパーはくとに乗って,智頭急行線智頭駅に到着したのは朝11時30分。岡山市在住の武部将治さんと落ち合って,クルマで智頭町上板井原を訪ねると,分校跡そばには神社があって,秋まつりが行われていた。

鳥取市 鷹狩旭丘神社の花籠まつりに参加する


# 30-3
『廃村をゆく2』の表紙写真を撮った廃村 鳥取市板井原に立ち寄った後,板井原・杉森の移転先 鷹狩旭丘の花籠まつりに参加した。3月下旬,表紙写真の旅が縁の飯田弘文さんが案内してくれたまつりでは,氏子の家々に獅子舞が繰り出し,旭丘神社に若者が背負った花籠と獅子舞が奉納された。参加できるまつりは楽しい。花飾りを施した竹を輪にしたいただきものは「無病息災を願って,高い所に置いておくとよい」とうかがった。
この日は,智頭急行線山郷駅そばの農家「ももちゃん」で民泊。夕食後はご主人の案内で,近くの神社の夜まつりに出かけた。湯立て神事に参加し,地酒を振る舞っていただいた。まつりとの距離が短く感じられた一日だった。

# 30-4
翌9日(日)の起床は朝6時。天気は雨のち曇り時々晴。鳥取駅でクルマを借りて兵庫県但馬地方へと出発したのは朝9時30分。途中,居組駅,浜坂市街の土産物店,余部鉄橋跡,鎧駅に立ち寄ったが,「賑やかな場所よりも静かな場所のほうがいいな」と,今更ながら思ったりした。
本見塚の枝村カヤノは,佐津川上流域,R.178からわかりにくい枝道を1kmほど入った場所にある。訪ねてみると道のどん詰まりに民家が構えていたが,人の気配はなかった。本見塚に向かう道には車止めと「立入禁止」の札がなされていて,その荒れかたを見て,すぐに引き返した。橋の向こうの家々も見に行ったが,やはり人影はなかった。カヤノには長らく3戸の暮らしがあったが,常住される方はいない様子だった。

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カヤノ−本見塚間の道は車止めで閉ざされていた                 車止めの先の道は、ひたすら草に埋もれていた  .


# 30-5
R.178まで戻り,土生(Habu)でクルマを折り返して向かった本見塚入口のT字路は旧道となっていた。そして,本見塚に向かう未舗装道の路面は荒れていた。T字路から本見塚まではおよそ2km,「クルマを置いて行くしかないっしょ」と言って歩いて向かったが,keikoは気が進まなかったことだろう。
奥佐津小学校土本分校は,へき地等級2級,児童数6名(S.34),明治7年開校,昭和40年閉校。五万地形図(香住,S.45)に文マークは記されていないが,事前の調べで分校跡は土生−本見塚間,進行方向左手にあることがわかっていた。気をつけながら歩いていると,コンクリ造りの水槽が残る平地が見つかった。他は概ね斜面だったので,「ここが分校跡ではないか」と推測した。

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土本分校跡と思われる平地に残るコンクリ造りの水槽                 水槽の側面には「水」の文字が刻まれていた   .


# 30-6
小さな峠を越えてしばらく進むと視界が開けて,午後2時頃,T字路から1時間ほどで本見塚に到着した。本見塚の明治24年の戸数は21戸・120名。大阪営林署の事業所があり,山仕事を生業とした暮らしがあったが,地すべり地域の指定があって個別の移転が進み,昭和43年,最後の2戸が集落を離れた。
本見塚では往時からの土蔵,地すべり地域の看板,大阪営林署の名前が入った看板,石垣,タイル貼りの風呂桶や流しを見つけることができた。奥まった場所にはイチョウの木がある広い屋敷跡があり,「神社かな」と思ったが,後で確認した「村影弥太郎の集落紀行」Webには,「神社は墓地とともに集落跡のはずれにあって,石造りの鳥居がある」との旨が記されていた。

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      本見塚には往時からの土蔵が残されていた              屋敷跡への階段はギンナンに覆われていた


# 30-7
T字路までの帰り道,峠の手前で道をシカが横切り,それに続いてシカの角を拾った。「クマが出てもおかしくはないなあ」という雰囲気だったが,熊鈴は持っていなかった。私はkeikoと大きな声で話しながら,シカの角を片手に持って,時々振り回しながら歩いた。
この日の宿は城崎の温泉・料理宿「風月魚匠」。廃村めぐりの旅には似合わない宿だが,「妻とふたりなので,たまにはよいかな」と思って選んだ。城崎名物の外湯は宿から近い鴻の湯を選んだ。食事は思いがけず出てきた香住ガニがとても美味しかった。カニの漁期は11〜3月だが,香住ガニは早い時期から採ることができるそうだ。

# 30-8
翌10日(月祝)の起床は朝6時。天気は晴時々曇り。朝食には地魚のカレイとハタハタが焼き魚として出てきた。城崎からは円山川沿いの道を走り,豊岡市街を通過し,江原からは阿瀬渓谷の案内板をたどり金山へと向かった。阿瀬渓谷は紅葉の名所だが,シーズン前の駐車場にクルマは2台だけだった。
駐車場から阿瀬渓谷を経て金山まではおよそ2.5kmだが,標高差がある山道なので「1時間半はかかる」と予想した。山道になってすぐの場所で,3人組の山歩きの方とすれ違い,「ちわっ」とご挨拶したが,それより奥では誰にも出会わなかった。「たいへんな道やなあ」と言いながら,keikoは付き合ってくれた。ただ,見応えがある滝をはじめ,風景を楽しむ余裕はなかったそうだ。月照滝を過ぎたあたりでは道を見失いそうになるほど荒れていた。

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金山へ向かう山道の途中には、不動尊のお堂が建っていた              棚田跡の石垣のすぐそばに阿瀬川の源流が流れる  .


# 30-9
金山入口の三差路を過ぎると,規模の大きな棚田跡の石垣があった。およそ集落があったとは思えない山中だが,この石垣は確実に後世に残ることであろう。石積みの階段がある橋を渡って金山に到着したのは正午前。駐車場からは1時間40分で着くことができた。
三方小学校金山分校は,へき地等級4級,児童数6名(S.34),昭和32年開校,昭和37年閉校。金山は,鉱山関係(金銀の採掘)の集落として成立。鉱山の最盛期は室町時代後期で,江戸時代中期に廃鉱となった。その後は,炭焼きなどの山仕事を生業として細々と存続,昭和初期には10戸の暮らしがあったが,徒歩交通しかない山中で暮らしが成り立つ時代ではなくなり,昭和37年,最後の一家が下山して廃村となった。

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  金山・分校跡入口には四阿が建っている                     集落があったことを伝える五右衛門風呂


# 30-10
分校跡には金山の歴史を記した案内板と四阿が建っており,一角には校舎のものと思われる廃材が集めらせていた。分校跡で昼食をとってから集落跡を探索すると,家屋跡に残る五右衛門風呂が見られた。集落跡は整えられていて,五右衛門風呂は「集落があったこと」を伝えるために残されているように見えた。
駐車場までの帰り道,不動尊のお堂を過ぎたあたりで,黒い猟犬のようなものが見下ろした先の道の落ち葉の中を横切っていった。猟期にはまだ早く,大きさから考えるとクマに違いなさそうだ。私は小声で「クマを見たで」とkeikoに話すと,「この山の中やからなあ」との返事がきた。これほど厳しい山中とは思っておらず、熊鈴は持っていなかった。 その後の山道は,なるべく賑やかに声を出すよう心がけた。

鳥取駅までの帰り道、新温泉町居組の海岸から日本海を見る


# 30-11
飛行機には乗りたくないというkeikoを豊岡駅で見送って,鳥取駅までは単独で帰った。途中,余部鉄橋の見納めの頃(平成21年6月)に訪ねた新温泉町桧尾に立ち寄った。冬季分校跡の校舎はしっかりと残っていたが,秋の草に包まれていたからか,前回よりも寂しい感じがした。
本見塚,金山を訪ねて「廃村千選」の累計訪問数は503か所となり,兵庫県8か所,関西41か所の全訪が達成された。
10月17日(月),母の退院の日取りが決まり,順次介護サービスの計画が決まった。思えば平成17年8月の「学校跡を有する廃村」の旅開始から11年2か月の間,テーマを決めた廃村への旅を続けてきた。「500か所超え」を成就した今,廃村への旅はひと区切りし,新たな展開を模索しようと考えている。

(追記) 平成29年2月26日(日),「廃村千選」は「差替えにより累計数1000を守る」という考えを取り払い,追加分があれば増える形に改めたため,福岡県の累計数が5か所となり,全訪は21府県に戻った。



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