東西移動ツーリングで訪ねた 吉野の廃村

東西移動ツーリングで訪ねた 吉野の廃村 奈良県上北山村深瀬,東の川

廃村 東の川(ひがしのかわ)に残る,簡易郵便局跡の建物です。



2010/7/4 上北山村深瀬,東の川
[ 11/21 川上村白屋 ]

# 9-1
平成22年7月上旬,思い付きで始めた埼玉・浦和から大阪・堺への東西移動ツーリング。思い付きからはさらに思い付きがひらめくもののようです。
7月4日(日,旅2日目),静岡県焼津市の宿「大洋旅館」で目覚めたのは朝5時。昨夕からの雨は上がっていて,曇り空ながら青空のかけらも見えます。「これは早く出かけたい」と思い付き,朝食をキャンセルして宿を出発したのは朝6時。吉田ICから東名道に入り,朝食は浜名湖SAでラーメンです。
心配していた雨も愛知県内でパラっと来たぐらいで済んで,伊勢湾岸道で名古屋を抜けると,午前9時10分には東名阪道 亀山PAに着いていました。
堺には午前中に到着しそうですが,携帯で天気予報を聞くと午後からは曇時々晴とのこと。寄り道の虫が走ったのはいうまでもありません。

# 9-2
とはいえ,三重県や奈良県のツーリングマップや地形図は持ち合わせていません。「この機会に訪ねておこう」と思い付いたのは,奈良県吉野・上北山村の山深くにある東の川(Higashinokawa)です。吉野は奈良県南部,全国有数の険しい山の地域です。私は大学院1年(昭和59年)の夏,紀伊半島一周のサイクリングでR.425(尾鷲−池原ダム)を走り,東の川をかすめたことがあるのですが,学校や簡易郵便局があるということを知りませんでした。
少々距離はありそうですが場所がはっきりしているので,「何とか行けるだろう」と名阪道を針ICで途中下車。川上村を案内する看板を追いかけて走るローカル道は,のどかで快適です。R.166 佐倉峠を越えてたどり着いた東吉野村の入口には,山村留学を勧める看板が立っていました。


# 9-3
川上村に入り,吉野川沿いのR.169で目立つのは大滝ダムの水没予定地です。谷底に古い道や橋が見られることを不思議に思い,後で調べたところ,ダム本体は平成14年に完成したが,試験潅水時に起こった地すべりの対策等により,貯水はほとんど行われていない(未竣工)とのこと。
村役場がある迫(Sako)の先の新しい橋を渡った場所に,地すべりのため全戸移転となった白屋(Shiraya)があるというのも,後で知ったことです。
大迫ダム(昭和48年竣工)を過ぎ,新伯母峰トンネルを超えると,北山川沿いの上北山村です。晴天のもと,村役場がある河合(Kawai)に到着したのは午後12時半。ガソリンスタンドでお話をすると,午前中には大雨のもと,自転車競技の大会(「ヒルクライム大台ヶ原」)があったとのこと。

# 9-4
河合から少し先に向かうと北山川の流れは止まり,その風景は川からダム湖に変わりました。池原ダム(昭和39年竣工,堤高111m,貯水量3億3840万立方m)は関西一の規模を誇る大きなダムで,白川地区(白川,戸賀,深瀬,古代など)を中心に,多くの集落が水没しています(水没戸数273戸)。
その中で,最大規模の集落 白川(Shirakawa)は,代替地への移転により戸数30戸(H.20)の集落として存続しています。枝道に入って白川(内ヶ谷移住地)を訪ねると,整然とした区割りの中,グランドの隅には「懐旧之碑」という水没記念碑が立っていました。
白川よりも4kmほど下手,往時分校があった深瀬(Fukaze)は水没し,代替地はできませんでしたが,その名前はトンネルやバス停に留まっています。

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# 9-5
白川小学校深瀬分校は,へき地等級1級,児童数34名(S.34),大正9年開校,昭和41年閉校。分校については何の情報も持っていませんでしたが,河合のガソリンスタンドのおじさんに「深瀬分校ってご存知でしょうか」と尋ねたところ,「昔運動会で行ったことがあるよ,なつかしい」とのお返事。
「分校跡は,深瀬トンネルを超えてすぐのところ(湖底)にあり,近くの湖岸にはレンタルボート店が建っている」と伺ったので,これを目指すと,「ホワイトリバー」というお店が見つかりました。お店は自家用ボートの昇降場も併設されており,バス釣りの方などで賑わっていました。
バイクを停めて,ボート昇降場のレール,浮き船着場を見下ろしましたが,往時集落や分校があったという気配を感じることはできませんでした。

# 9-6
深瀬からは下北山村に入り,池原のコンビニでパンを調達してから,東の川を目指しました。池原ダムの堤体(天端)を通ってしばらく走ると,もうひとつ堤体があってびっくり。何でも本流に作られた堤体からは水は流れ出しておらず,第二の堤体から水が流れる構造になっているとのことです。いつのまにか北山川から分かれた東ノ川沿いのR.425は,高低差はないものの曲がりくねっており,30km/hほどしか出すことができません。
池原から7kmほどのダム湖沿いには,「大瀬水没之碑」があったので,バイクを停めてご挨拶。再び上北山村に入り,池原から15kmほどのダム湖沿いには,「大塚水没記念碑」があったので,ここでもバイクを停めてご挨拶。東ノ川はずっと湖になっており,川らしい流れを見ることはありません。

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# 9-7
坂本ダム(昭和37年竣工)を過ぎ,ダム湖を出合橋で渡った三差路までは26年前に足を運んでいます。三差路から1km強,池原から22kmほどで,RC造二階建ての学校跡の建物が視界に入り,東の川地区の中心 宮ノ平(Miyanodaira)に到着したのは午後2時頃でした。
東の川小学校(中学校分校併設)は,へき地等級4級,児童数67名・生徒数10名(S.34),明治23年開校,昭和41年休校,平成10年閉校。児童・生徒数の変遷を見ると,昭和36年は児童数26名・生徒数6名,ダム建設中の昭和37年,38年はゼロ,昭和39年は児童数4名・生徒数1名,昭和40年(最終年度)は児童数3名。このことから,RC造二階建ての校舎は昭和39年に湖畔に建設されて,ここで学んだ児童・生徒は全部で5名だったことが推測されます。

# 9-8
山の中に残された校舎は,心ない侵入者により荒らされています。中も探索しましたが,各所に見られるスプレーの落書きには,淋しさを感じました。校庭の端には,「望郷立志誓之碑」という大きな記念碑(昭和44年建立)が建っています。碑は青年団の解散を記念して建てられたものとのこと。
新しい学校の建設を計画した頃には,校舎や校庭の大きさにふさわしい戸数が代替地に残ると想定されていたのでしょう。ダム建設前(S.34)の東の川地区(大塚,坂本,出合,古川,宮の平,五味,出口)の戸数は133戸。うち,ダム完成後,宮ノ平代替地に残ったのは23戸。児童・生徒数の変遷,青年団の解散時期を考えると,高度成長期後半(昭和40年代後半)には東の川に常住される方はいなくなっていたのかもしれません。

# 9-9
宮ノ平の代替地(住宅地)は,学校跡から1km弱上手に走り,県道から少し上がった高台にあります。まずは神社(宮頭神社)にご挨拶。狭い代替地にはRC造二階建ての森林組合の建物を含め十数戸の家屋が建っていますが,人の気配はありません。ただ,小学校跡のような荒んだ雰囲気はなく,時折住まれていた方々が手入れされている様子です。東の川の方々の移住先は,比較的距離が近い(26km)三重県尾鷲市が多いとのことです。
東の川簡易郵便局跡の建物は,代替地のいちばん手前にあり,よく見ると正面標札に〒マークがありました。常住される方がいなくなってからも時折戻られる方(というよりも郵便貯金など趣味の方)のために存続した東の川局は,郵政民営化(平成19年10月)を控えた平成17年4月に廃止されました。


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# 9-10
東の川探索は,パン昼食を含めて1時間。関西では有名な廃村ですが,地域の方,旅の方ともに出会うことはなく,帰途に着くことになりました。
坂本ダムの堤体(天端)から分かれる林道サンギリ線を走ると,河合までショートカットできたようですが,地図のない思い付きツーリングの弱み,帰り道も池原ダムを回りました。しかし,この回り道のおかげで,白川地区のもうひとつの代替地 水尻(Mizushiri)に行く機会ができました。ダム建設移転時8戸だった水尻に現在住まれる家は1戸のみ。コケ生した歩道,ブロック塀,閉ざされた家屋が並ぶ風景は,宮ノ平に似た雰囲気がありました。
川上村まで来た道を戻り,R.319,南阪奈道路などをつないで堺に帰り着いたのは夕方6時半。この日の走行距離は528km(2日間計は864km)でした。

(追記1) この旅の4か月半後(11月21日(日)),日帰りで堺からバイクを走らせ川上村白屋を訪ねました。印象に残ったのは,ほとんどの建物が取り壊された集落跡にポツンと残った木造家屋と,集落跡より下流側の通行止め区間に建てられていた川上第二小学校(昭和58年閉校)の記念碑と二宮金次郎像でした。

(追記2) 大滝ダムは,平成25年3月に竣工しました。

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